日居月諸

書き手:吉田勇蔵          ブログ「月下独酌」もご高読賜りたく http://y-tamarisk.hatenablog.com/  twitter@y_tamarisk

村田沙耶香『コンビニ人間』がおもしろうて

 芥川賞直木賞の受賞作品を、それだけの理由で受賞直後に読んだことは今までなかった。ノミネートされる前に読んでいたとか、あるいは受賞して数年後に読む機会があった、ということは何度かある。
 だが村田沙耶香『コンビニ人間』は例外で、受賞1か月後の昨日読んだ。何となく嗅覚が働いて、面白そうだという予感に導かれたのだ。誰かの書評を読んだわけでもない。縁があったというしかない。


 主人公の古倉恵子は「普通の家に生まれて、普通に愛されて育った」のだが、社会常識からズレた「奇妙がられる子」だった。小学校入学間もない頃には、良かれと思って級友の男子の頭をスコップで思いっきり殴って周囲をパニックに陥れるとか、またまた良かれと思って若い女の先生に駆け寄ってスカートとパンツを勢いよく下ろしてしまうとか、本人は善意で大真面目なのだ。
 そんな「私」(古倉恵子)は、大学1年生のときにひょんなことから始めたコンビニ店員のアルバイトを18年も続けて、今は36歳。古ぼけたアパートの狭い部屋に独りで住んでいる。「私」は勤め先のコンビニで制服を着てマニュアル通りに振る舞うことで、普通の人間という皮をかぶって生きていくことができる。よく気が利く有能なベテラン店員で、店長の信頼も厚い。
 親や妹は「私」が「治る」ことを心から願っている。「治る」とは常識人になることである。学生時代に顔見知り程度だった旧友たちも、コンビニに居場所を見つけて一皮剥けたかに見える「私」に友好的である。「私」はそれらの常識人との交わりを通じても、「異物感」という内なる自己認識から自由になれない。コンビニで完璧な部品として機能しているときだけ安らげるのである。


 と、こういうふうに紹介すると、暗~い小説のように誤解されそうだ。ところがあにはからんや、弟知らんや、全篇がユーモラスな空気に包まれているのである。
 私は電車の座席で読んでいたのだが、笑いたくなった場面が何度もあった。ファミレスでのプロポーズの会話など、もう吹き出しそうになった。電車の中なので声を出して笑うこともはばかられ、とっさに先々代二子山親方(初代若乃花)が「人間辛抱だ」と言ってるときの顔を思い浮かべて、何とかこらえた。

 

「突然なにを言ってるんだ。ばかげてる。悪いですけど、僕は古倉さん相手に勃起しませんよ」
「勃起? あの、それが婚姻と何の関係が? 婚姻は書類上のことで、勃起は生理現象ですが」(87頁)

 

 続いて電話で「私」と妹のちぐはぐな会話。「私」の報告を勘違いして大はしゃぎする妹の描写など、読んでいて笑いをこらえきれず、もう俯いてにやけていた。


 共同体に適応できない個の悲しみ。同じテーマを凡手が描くと、暗くなったり、憤怒に燃えたり、たいていの場合、適応できない個を高みにおいて常識人を見下す筆致になるものである。『コンビニ人間』では、すべての登場人物(常識人)がそれぞれ個性鮮やかにくっきりと描き分けられ、かつ作者の眼差しが暖かい。「私」も誰に対しても恨みや嫌悪の感情を持っていない。
 小説中盤の圧巻は、「私」の学生時代の仲間やその家族たちとのバーベキューパーティーの場面である(71-77頁)。群像の活写が見事というほかない。パーティーの場面は次のように締めくくられる。

 

 あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。
 店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。
 正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。
 そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。
 家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。(77頁)

 

 上に出てきた「白羽さん」は30代半ばの社会不適格者で、プライドだけが異様に高いダメ男である。不適格の程度とプライドの高さ、それぞれが因となり果となってスパイラル状に昂進していくような男である。
 小説後半は「私」と「白羽さん」の掛け合いを軸に展開していく。「白羽さん」は「私」と同類かといえば、けっしてそうではない。「白羽さん」は社会を呪詛しているが、その社会の価値観に即して自分のプライドを保とうとしている。支離滅裂である。「私」は共同体の常識からズレてしまった人間なので、その価値観に即し得ないのだ。コンビニの部品に徹することでかろうじて自分を保って(自分を偽って)いるのである。
 「白羽さん」は「私」に向かって「処女のまま中古になった女がいい歳をしてコンビニのアルバイトをしている」と毒づく。

 

「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでいるわけでもなく、それどころか社員でもない。アルバイト。はっきりいって、ムラからしたらお荷物でしかない。人間の屑ですよ」
「なるほど。しかし、私はコンビニ以外では働けないんです。一応、やってみようとしたことはあるんですが、コンビニ店員という仮面しかかぶることができなかったんです。なので、それに文句を言われても困るんですが」(98-99頁)

 

 というように、「私」は「白羽さん」からひどい侮辱の言葉を散々浴びせられ続けても、傷つくこともなく、怒りの片鱗さえ見せない。「白羽さん」は毒づきながらも、「私」に対して母性に依存するかのように甘えているところがある。他方「私」は「白羽さん」に対して好悪いずれの感情も一切持っていないかのようである。
 感情を失ったかのような「私」も、一瞬心を動揺させる場面がある。コンビニの同僚店員たちが「私」を褒めたときである。

 

「古倉さんって、怒らないですよね」
「え?」
「いえ、古倉さんって偉いですよね。私ああいう人だめなんですー、イライラしちゃって。でも古倉さんって、ほら、私や泉さんに合わせて怒ってくれることはあるけど、基本的にあんまり自分から文句言ったりしないじゃないですか。嫌な新人に怒ってるところ、見たことないですよね」
 ぎくりとした。
 お前は偽物だと言い当てられた気がして、私は慌てて表情を取り繕った。(50頁)

 

 共同体に違和感を持っている孤独な人間が、目の前の小さな仕事を丁寧に丁寧にやり遂げる。もっともらしく偉そうな言葉を吐いていい気になっている人間よりも、目立たないが実質はるかにいい仕事を黙々と仕上げる。そんな登場人物は村上春樹の初期短編でも描かれていた。
 コンビニの「私」もまた、実に小さなことにもよく気が回り、日々誠実な仕事を重ねている。それは孤独ゆえの仮面の姿なのである。
 この寂しい人間の姿を、暖かくユーモア漂う筆で描き出した『コンビニ人間』は素晴らしい作品だと思う。

 

 だからといって、人に薦める気にはならない。嗜好は人それぞれである。もしこの作品を任意の誰彼に「面白いよ」と薦めても、「読んだけど、どこが面白いのかさっぱりわかんね。あんた変な人だね」とバカにされるのが大方の反応だろう。私の生活実感である。
 あるいはまた、文学作品の価値を政治や歴史の副教材としてしか見出していないらしい一部の知識人(?)の目には、『コンビニ人間』など1ミリの価値もない駄作にしか映らないだろう。
 人それぞれである。だからむやみに人に薦めたりしない。

 

 私はこの作品を単行本で読んだので、文藝春秋今月号に掲載されている芥川賞選考委員諸氏の選評は読んでない。ただ一人山田詠美氏の選評の末尾数行だけ、先程書店でチラ見して来た。芥川賞の選考委員を十数年続けてきたが、候補作を読んで笑ったのはこれが初めてだ、というようなことを詠美氏は書かれていた。この作品で笑いを共有できる人とは仲良くなれそうに思う。仲良くなる予定は特にないのだけれども。
(了)