日居月諸

書き手:吉田勇蔵          ブログ「月下独酌」もご高読賜りたく http://y-tamarisk.hatenablog.com/  twitter@y_tamarisk

村上春樹氏のスピーチ『影の持つ意味』を読んで

 村上春樹氏のハンス・クリスチャン・アンデルセン賞受賞スピーチ(10月30日.於デンマーク)の内容が新聞やTVで報じられている。一部のニュースしか見てないが、メディアは概してヨーロッパの難民問題を念頭においてスピーチを解釈し引用しているようである。スピーチは直接難民問題に言及してはいないが、村上氏が一般論として、壁を高く築いて排除するのではなく、自らの歴史の影の部分から目をそらさず、その影と共に生きる道を模索することが必要だと語っている部分がある。メディアはそこをクローズアップしているわけである。

 たしかにスピーチの最後はそのような主張で締め括られている。だがスピーチ全体を読んでみよう。アンデルセンの『影』(邦題『影法師』高橋健二訳)を例示し、村上氏自身の創作態度を踏まえながら、アンデルセンの『影』創作の心理過程を想像して、個人が自分の負の部分を直視する勇気について語っているところがメインである。
 日本では子供向きの童話作家として著名なアンデルセンが、なぜこのような暗くて絶望的な大人用の童話を書いたのだろうか、という疑問から村上氏は自らの創作姿勢を聴衆に語り始める。
 村上氏はプロットを計画しないと言う。たったひとつの場面やアイデアがひらめくところから小説を書き始め、書くにつれその場面やアイデアがひとりでに前進していくのだ。自分はそのような無意識の働きを大切にする。子供たちがお話の続きがどうなるのかと思いながら聞いているように、自分もまた書きながらこの先どうなるのかとわくわくしているのだ、と村上氏は語る。
 村上春樹作品が多くの読者の共感を得ている秘訣がここにある。もちろんこのようにして作品を創るに至るには、並はずれた集中力をもっての沈潜そして熟成の長い期間が必要である。誰にでもできることではない。
 村上氏のスピーチは秀才批評家に冷やかである。作家がもし分析的に物語を作ろうとするなら、物語固有の活力は失われ、作家と読者の間に共感も生まれないだろうと。
 私もそんな作家のつまらない作品を読んでしまうことがときにある。私にとっては費用と時間の無駄で、一種の災難である。たまたま出くわすと、その作家の本はもう二度と手にとらない。ある中堅作家が頭で設計しただけで書いた中編小説が昨年書評などで最高傑作のように紹介されて、そこそこ話題になっていた。作家の理屈を解釈しての仲間褒めである。映画にも評判だけは良いそんな作品がある。
 閑話休題アンデルセン『影』は、影を失った主人公が、独立して強大化した影に支配(復讐?)され、悲惨な結末を迎える童話である。訳者高橋健二氏は作品解説で、「かなり虚無的な深刻な大人の童話です」と書いている(アンデルセン童話全集第二巻)。村上氏のスピーチでは、アンデルセンは何かを発見したくて、結末がどうなるかなど分からないまま、物語自身が自動的に進むにまかせて書いたのだろうと推測している。同じ創作法をとっている村上氏が言うのだから、きっとそうなのだろう。

 アンデルセンのそのような試みは、彼自身の見たくない内面の影を発見してしまうことにもなるから容易ではなかったろうが、カオスの中の影を正視し、恐れることなく歩を進めたのだと、村上氏は称える。まるで江藤淳の『考える喜び』である。(江藤淳村上春樹を根こそぎ否定し、論じるに値しないという態度をとり続けた人である。酷評よりもひどい江藤の最高レベルの嫌悪感の表明であった)
 全部で14段落あるスピーチ原稿の12段落目から、個人を超えて社会や国家にとっても同じことが言える、と話が進む。暗い面や負の部分を見ることは嫌なものだが、世界が確かな立体像であるためには、影を持たなければならない。影を殺してしまえば、世界は奥行きのない幻影になってしまう。「影を生じない光は真の光ではない」(拙訳。以下同じ)
 そして最後の段落でメディアが注目する部分、「どれほど高い壁を築いて侵入者を防ごうとしても、どれほど厳しくよそ者を排除しようとしても、どれほど自分に都合よく歴史を書き換えようとしても、それは結局自分自身を損なって傷つけてしまうことになる。影と共に生きる術を根気よく身に着けていかなければならないのだ」
 影を正視しないでいると、(アンデルセンの童話のように)強大化した影がある夜あなたの家のドアをノックして、「戻って来たぞ」と囁くようになりますよ、と聴衆を脅してスピーチは終る。

 

 村上春樹の文学の軌跡は、孤絶した内面に沈潜し、沈潜を徹底することで壁抜けをして世界に繋がるという骨子を持っている。上のスピーチの前半から中盤すぎまでの内容も、個人の内面に関する話題である。それが終盤で突然国家の問題に飛躍するのである(メディアはここをクローズアップする)。
 現実に大量の難民の流入に直面しているヨーロッパの人々にとって、「影と共に生きよ」と安直に言われてどうなるものでもない。文学の言葉を政治に短絡するのは空しいだけである。
 この飛躍は村上氏の近年の発言の特徴である。人間の心に向き合う文学者の態度と、その個々人の心にも反映している歴史や政治の背景は、まったく無縁の二律的存在であるわけはないが、それを短絡する村上氏に私はかねがね批判的である。では短絡せずどのような架け橋が可能なのかは私にも分からない。ただ考え続けるべき問題として意識にはおいておきたい。

 

 急いで書いたので、まとまりがなくなってしまった。すみません。後日加筆するかもしれない。
(了)

 

【付録1】村上春樹氏のスピーチ『影の持つ意味』全文

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【付録2】

拙文「加藤典洋村上春樹は、むずかしい』を読む」をあわせてご高覧くだされば有難く存じます。

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