日居月諸

書き手:吉田勇蔵          ブログ「月下独酌」もご高読賜りたく http://y-tamarisk.hatenablog.com/  twitter@y_tamarisk

藤田嗣治が描いた戦争画からの連想

 デスク前の壁に、藤田嗣治作『カフェにて』の絵葉書を小さな額に入れて飾っている。パリのカフェでテーブルに頬杖をついて物憂げな表情を浮かべた若い女性が描かれている。藤田嗣治のトレードマークともいうべき乳白色の肌が黒いドレスとのコントラストで映えている。
 2006年の春に東京国立近代美術館で催された藤田嗣治展で購入した絵葉書だ。10年近くの間、毎日目に入ってくる絵なので、私の日常の一部になっている。書物からふと目を離したときやキーボードを打つ手を休めたときなどに、ぼんやりとこの絵葉書を眺めていることがよくある。
 それについて何かを考えるということもなかったのだが、最近観た映画やTV番組がきっかけとなり、この絵が描かれた時代背景について、同展で購入した図録を開いて復習してみた。
 この絵にはいくつかのバージョンがあり、制作年は1949-63年となっている。私が目にしている作品が何年のバージョンかは不明である。藤田がこの作品の着想を得たのは、追われるようにして日本を離れしばらく滞在していたニューヨークでのことであり、その絵にはパリへの望郷の思いが投影されていると解説文に書かれている。
 藤田がニューヨークを経てパリに復帰したのが1950年で、55年にはフランス国籍を取得している。49年に羽田での記者会見で「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩をしないでください」と捨て台詞を残して旅立ち、68年に没するまで二度と日本の土を踏むことはなかった。
 敗戦後の日本の画壇は、GHQを恐れ、GHQにより与えられた史観におもねり、藤田を戦争協力者のスケープゴートにして批判を浴びせた。1946年に発足したばかりの日本美術会は「戦争画藤田嗣治」の責任追及を決議し、美術界の戦犯として一人でその罪を引き受けよと藤田に通告した。藤田はこの年からフランス行きの準備を始める。
 日本国籍を捨てた藤田は、日本の美術界に都合よく使い棄てにされたこと、人の策動、嫉妬、迫害に悩まされたことなどについて強い憤りをもって語っている。


 さて藤田嗣治戦争画とはどのような作品なのだろうか。
 私がそれらの実物を観たのは、上に述べた2006年の藤田嗣治展でのことである。それは藤田の20代前半から晩年にいたるまでの97点の作品が出品された大規模な展覧会だった。展示は3つの章から構成されていた。「第1章エコール・ド・パリ時代」「第2章中南米そして日本へ」「第3章ふたたびパリへ」の3つである。戦争画はもちろん第2章の一部で、「戦時下で」と題された一室での展示だった。全部で5点。いずれも縦横2メートル前後の大作である(最大で横362cm)。
 最初に観たのは『シンガポール最後の日(プキ・テマ高地)』(1942年)だったように記憶している。従軍画家としてシンガポールの戦線で描いたスケッチをもとにして帰国後に完成した作品だ。シンガポール攻略を目指す兵士たちの匍匐前進の姿と、陥落寸前で燃え上がるシンガポールの遠景が描かれている。絵の目的は銃後の日本人の戦意高揚である。


 パリ時代の若き藤田は、日々の食費にも事欠くような8年にも及んだ困窮生活を経た後に大ブレイクし得意の絶頂の時期を迎えたが、世界不況の頃から絵が売れなくなり、また連日の乱痴気騒ぎでの借金もかさんでおり、1933年に帰国する。1938年には海軍嘱託として中国戦線の取材を実施し、戦争の記録画を描き始める。だが日本の画壇と折合いが悪く、パリへの思いが断ちがたかった藤田は、1939年に5人めの妻(日本人)と共にフランスへ旅立つ。しかしすぐに大戦が勃発し、翌年ナチスがフランスに侵攻したのを見てパリを脱出した夫妻は、1940年に再び帰日した。日本の中国戦線は見通しもないまま奥深く拡大しており、翌年には対米英開戦にいたる。戦争の記録画家としての描写力を高く評価した軍部(陸軍、海軍とも)は藤田を重用し、テレビなどがない時代、戦争画を戦意高揚のための格好のプロパガンダ手段として利用した。藤田もその要請に積極的に応え、戦争画を量産したのだ。上記『シンガポール最後の日(プキ・テマ高地)』はその頃の一点である。日本各地を巡回した「聖戦美術展」に押し寄せた銃後の国民は、この絵を観て、日本軍の進撃に大いに快哉を叫んだことであろう。


 2006年の藤田嗣治展に戻ろう。次に観たのが『アッツ島玉砕』(1943年)、『血戦ガダルカナル』(1944年)、『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945年)などの群像画である。ミッドウエーの海戦(1942年)で大敗を喫し、日本の戦局が大きく悪化してからの作品である。
 たいして予備知識を持たないままこれらの群像画を観た私は恐怖で足がすくんでしまった。この阿鼻叫喚の地獄絵のどこで戦意が高揚されるというのだろう。


 会場を出てから私は、ヴェトナム戦争を題材とした映画『プラトーン』(オリヴァ―・ストーン監督・1986年米)を観て凄い恐怖感に包まれた以前の体験を思い出していた。ヴェトナム戦争の映画では、『地獄の黙示録』(フランシス・コッポラ監督・1980年米)でも背筋がぞくぞくと冷たくなった。映像以上に、言葉を紡いで想像力に訴えかけてくる小説作品で味わう恐怖心はもっと深い。ティム・オブライエンの連作短編集『The Things They Carried』(1990年)(邦題は『本当の戦争の話をしよう』・村上春樹訳・文春文庫)(注) を読んだときにもただごとならぬ恐怖を感じた。
(注)『The Things They Carried』(彼らの担ったもの)も『本当の戦争の話をしよう』(How to Tell a True War Story)も、どちらもこの本に収録されている短編の題名である。

 私がなぜヴェトナム戦争を題材とした作品からことさらに恐怖を感じるかといえば、自分にとって「あったかもしれない」パラレルワールドの“現実”を見るからである。
 私は、1952年に講和条約が発効して日本が主権を回復しようとした(「回復した」とはいえない)ときに、自主憲法を制定しておくべきだったと考えている。遅くとも、岸内閣が抱いた日米安保条約改定と憲法改正への志のうちの後者を、「戦後最大の国民運動」で葬るべきではなかったと考えている。そして私がそうあるべきだったと考えている戦後日本のパラレルワールドでは、重武装中立が空理空論である以上、日米同盟のもと日本もヴェトナム戦争に参戦していた可能性がある。私の年代の人間はヴェトナムのジャングルに送り込まれていた可能性があるのである。だからもうひとつの世界にあったかもしれない“現実”から凄まじい恐怖が押し寄せてくるのだ。そのパラレルワールドを善しとしている以上、ヴェトナム戦争には心理的責任があるのだ。


 それはさておき、『アッツ島玉砕』や『血戦ガダルカナル』で描かれている残酷で凄惨な場面は、私がもっと早くこの世に生を受けていれば放り込まれていたかもしれない“現実”である。いったいこれのどこが戦意を高揚させる絵なのか。恐ろしいばかりではないか。
 だからなのだろう。これらの作品には藤田の反戦の意思が込められているという人たちがいる。今公開中の映画『FOUJITA ―フジター』(小栗康平監督)でオダギリジョー演じる藤田嗣治は、日本の戦局悪化を見て、敗戦を予想するような発言をしている。これは小栗が理解している藤田像で、それはそれでいいのであるが、実際の藤田は少なくとも公にはそんな弱気の発言をしていない。
 ではなぜ小栗が戦中の藤田像をそのように捉えたかというと、『アッツ島玉砕』などの凄惨な絵に漂う悲哀感を読み取ったからではないかと推測する。そしてそれは小栗の的を射た読みだと思う。折り重なるおびただしい屍を踏みつけて敵味方入り乱れるなか、刀を振り回し、虚空を見上げながら何かを叫んでいる兵の悲しげな表情は何だろう(これはアッツ島守備隊隊長・山崎保代大佐の姿を描いているのだと後日知った)。
 アッツ島ガダルカナル島サイパン島も直接の取材によるものではなく、藤田の想像による作である。実際のアッツ島では、このような高密度の肉弾戦は行なわれていない。突撃して玉砕、それだけだったのだろう。
 戦意高揚という軍の要請に応える計算もあったのだろう、殺されている兵のほとんどは米兵である。だがキャンバスに向かう画家の心には戦意高揚の目的も反戦の意思もなく、戦場の極限状態での人の本性を描くことにのみ向かったのではないだろうか。
 『サイパン島同胞臣節を全うす』では、やがてバンザイクリフで自決することになる民間人の男女の、追い詰められながらも毅然とした表情を保っている姿や、ひたすらに祈る姿が描かれている。なかに一人立ったままで絵の鑑賞者に視線を向けている負傷兵がいる。どのようなメッセージを鑑賞者に送っているのか、などと解釈はしないほうがよいと思う。生きて在ることがただ悲しい。
 絵の前では恐怖心に捕われた私だったが、日を置いて冷静になると、これらはある種の宗教的な心から生み出された作品ではなかったろうかと思うにいたった。


 今年12月17日にNHKBSプレミアムで放送された『英雄たちの選択・藤田嗣治アッツ島玉砕”の真実』の中で、秋田県立美術館が展示している藤田嗣治1937年の作品『秋田の行事』が紹介されていた。1年を通じた秋田の暮らしを描いた壮大な壁画である。祝祭の場面では、生命のエネルギーが噴出するかのような群像の姿が描かれている。番組で同館学芸員の原田久美子氏が、祝祭と戦争というテーマで、人々が放縦に絡み合うこの群像画と『アッツ島玉砕』に通底する生命のエネルギーへの画家の関心について語っていた。『秋田の行事』にまったく無知だった私は、原田氏の説明を聞いて、「なるほど、そういうことだったのか」と膝を打った。
 収録で出演した美術史家の林洋子氏は、『アッツ島玉砕』には描くことの喜びがあふれ出ていると指摘する。
 スタジオ出演者のうちでは、「芸術家はファシズムに批判的であるべきだ」とか「戦争協力は結果的にまちがっている」とかの意見が飛び交うなか、国際政治学者の三浦瑠麗氏は、表現するという芸術家の本分について語っていた。人類の本質である暴力、敵意、死に対する恐れ等、人間の運命が詰まっている悲劇を前にして芸術家なら奮い立つのが当然だ、と。また、三浦氏は絵を観るときの視点として、好き嫌いよりも本物か偽物かという見方を大切にするとも語る。藤田が戦争を描いた作品には人間の本質が出ている、同胞の死に対する共感も感じとれ、本物だと思う、と。
 この言葉を受けて作家の高橋源一郎氏は、自分は藤田の作品が好きだが、本物か偽物かというと、どこか微妙に嘘くさい、偉大なる偽物だ、と言う。このへんの言葉のやり取りは大変おもしろかった。高橋氏が言うには、藤田は本当に描きたいものがあって描くのではなく、テーマはその時々に見つけていくいい加減なところがある。だが描きあげた絵は素晴らしい。藤田が戦時中に書いた文章は、「戦争、えいえいおー」みたいなものばかりで、読まなきゃよかったというようなひどい代物だ。だが絵を描き始めると、藤田の知性は手に宿り、反戦も厭戦も好戦もない素晴らしい作品ができあがるのだ、と高橋氏は語る。単刀直入に核心をついたことを言う人だ。

 

 ちょっと脱線して余談に入る。私は高橋源一郎氏の作品については、デビュー作の『さようなら、ギャングたち』(1981年)や『優雅で感傷的な日本野球』(1988年・第1回三島由紀夫賞受賞作品・江藤淳が絶賛)を80年代にそれぞれ読んだ。その後は新聞、雑誌、単行本等で評論文やエセ―をたまに読んだことがある程度で、あまり熱心な読者ではない。だが、氏の政治的意見には同意しないが、時々鋭く心に入ってくることを言う人なので、いつも気にはなっている。上のTV番組での発言もそうである。最近読んだ文章では、ネットの言論サイト「ポリタス」の2015年8月18日欄に掲載された『死者と生きる未来』がよかった。女衒をして糊口をしのいでいた若い頃の回想から始まるこの文章には、強く胸をうたれた。

 

 閑話休題。日本の戦局が悪化してからの藤田の戦争画は、戦意高揚とか反戦とかの政治的メッセージを突き抜けて、「手に宿った知性」が喜んで描いた作品なのである。
 芸術がイデオロギーから生まれるものでないことはいうまでもない。芸術作品を政治的価値観から解釈するような考察は浅墓な試みだ。美術であれ、音楽であれ、文学であれ、芸術作品は心を持った人間存在の深奥から生まれてくる結晶なのだ。
 『アッツ島玉砕』などの藤田の戦争画は、戦争を描いていてもその心は戦争ではなく、秋田の祝祭や、あるいはカトリックに改宗した晩年に礼拝堂のステンドグラスに描いた骸骨の積み重なりに通底する調べを奏でている。
 先に触れたティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』日本語版の「あとがき」で訳者の村上春樹が書いている。

 

オブライエンはもちろん戦争を憎んでいる。でもこれはいわゆる反戦小説ではない。あるいはまた戦争の悲惨さや愚劣さを訴えかける本でもない。この本における戦争とは、あるいはこれはいささか極端な言い方かもしれないけれど、ひとつの比喩的な装置である。それはきわめて効率的に、きわめて狡猾に、人を傷つけ狂わせる装置である。それがオブライエンにとってはたまたま戦争であったのだ。そういう文脈で言うなら、人は誰もが自分の中に自分なりの戦争を抱えている。そしてある意味では誰もが本当の戦争の話を語れるはずなのだ。だから本当の戦争の話とは戦争についての話ではないのだ・・・・・・それがオブライエンの言いたかったことではないだろうかと私は推測する。(傍線は原文では傍点)

 

 戦争をモチーフとした優れた芸術作品は、戦争を突き抜けて、人間存在の本質を描き出す通路を内包しているのである。
(了)

 

〔附記1〕
 2006年の東京での藤田嗣治展は、上に述べたように100点近い作品が出品された大規模な展覧会だった。そのなかで戦争画5点が一室にまとめられていたことは先述のとおりである。それはいい。だが、この部屋だけが照明が落とされて薄暗くなっていた。いったいこれは何なのだ。
 戦争の悲惨さを強調するための演出なのか。あるいは、他の部屋にあるような輝かしい作品をたくさん残した偉大な画家藤田嗣治の、これは暗部なのだという主催者からのメッセージなのだろうか。真意はわからないが、ほかに理由も思いつかないから、このどちらかあるいは両方なのだろう。
 視覚が命の美術鑑賞の場で、なぜわざわざ作品を見づらくするような処置を施すのか。どこのコンサートホールがわざわざ音響効果を損なうような改装をするか。寿司をわざわざオブラートでくるんで客に差し出す寿司屋がどこにいるか。「へい、お待ち」とか言って・・・
 そんな意地悪をしちゃいけないぐらいのことは、幼児にもわかる道理である。こんなあたりまえの道理を踏み外させる“精神”とはいったい何なのだろう。
 主催者(東京国立近代美術館・NHK・NHKプロモーション・日本経済新聞社)のうちの誰の思いつきだったのか知らないが、それをとめる人がいなかったのだろうか。
 戦争画も他の部屋と同じ通常の照明のもとで観たかった。美術館を出てからふつふつと怒りが沸いてきた。私は怒りの反応がしばしば遅れるのである。
 意地悪をされての腹立たしさはその場限りのものである。だがこのような愚行(←愚考)は、70年間今日にいたるまで、形を変えて至る所に偏在している。戦後イデオロギーが支配する“空気”への怒りは、単にその日の過去形で語ってすむことではなく、I have been angry.なのである。
 なお2015年秋にも東京国立近代美術館で、同館が所蔵する藤田嗣治の作品展があり、私は観に行かなかったが、今回は戦争画も通常の照明で展示されたのだろう。あたりまえのことだ。

 

〔附記2〕
 本文でも少し触れた映画『FOUJITA ―フジター』(小栗康平監督)は、前半で若き藤田嗣治のパリ時代(エコール・ド・パリの時代)の活躍を描き、後半は戦時下日本での日々の暮らしや戦争画制作と公開のようすを淡々と映している。
 ネットでは悪評が多いようである。私が観たのは12月19日だったが、土曜の新宿であったにもかかわらず、座席数84の小劇場の半分かあるいはそれ以上が空席だった。
 ストーリーの起伏はあまりなく、場面と場面のつながりがわかりにくいところもあり、退屈な映画かもしれない。
 これは小栗康平の映像美を楽しむ映画だと思う。と言っても、目にまばゆい鮮やかな風景が描かれているわけではない。色調は全体に暗く、小栗康平の監督処女作品『泥の河』(1986年)で描かれたモノクロの映像美を彷彿とさせる。
 『泥の河』は心に沁みる悲しさが多くの人々を惹きつけた名作だった。ストーリーは年月を経て忘れてしまうが、哀切感の漂う美しい映像から受けた印象はいつまでも残る。
 『FOUJITA』の映像は美しい。日本の農村風景も美しい。パリの安アパート室内での逆光場面も美しい。ちょっとした何てことのない暮らしの光景が美しい。一時停止のボタンを押せば一幅の絵画になってしまうようなシーンがいくつもあった。映画館の座席に一時停止のボタンはついてないけれど。
 これは小栗康平藤田嗣治へのオマージュである。

 

〔附記3〕
 村上春樹が「僕」でなく「私」と書く文章は大変珍しい。