日居月諸

書き手:吉田勇蔵          ブログ「月下独酌」もご高読賜りたく http://y-tamarisk.hatenablog.com/  twitter@y_tamarisk

村上春樹氏のスピーチ『影の持つ意味』を読んで

 村上春樹氏のハンス・クリスチャン・アンデルセン賞受賞スピーチ(10月30日.於デンマーク)の内容が新聞やTVで報じられている。一部のニュースしか見てないが、メディアは概してヨーロッパの難民問題を念頭においてスピーチを解釈し引用しているようである。スピーチは直接難民問題に言及してはいないが、村上氏が一般論として、壁を高く築いて排除するのではなく、自らの歴史の影の部分から目をそらさず、その影と共に生きる道を模索することが必要だと語っている部分がある。メディアはそこをクローズアップしているわけである。

 たしかにスピーチの最後はそのような主張で締め括られている。だがスピーチ全体を読んでみよう。アンデルセンの『影』(邦題『影法師』高橋健二訳)を例示し、村上氏自身の創作態度を踏まえながら、アンデルセンの『影』創作の心理過程を想像して、個人が自分の負の部分を直視する勇気について語っているところがメインである。
 日本では子供向きの童話作家として著名なアンデルセンが、なぜこのような暗くて絶望的な大人用の童話を書いたのだろうか、という疑問から村上氏は自らの創作姿勢を聴衆に語り始める。
 村上氏はプロットを計画しないと言う。たったひとつの場面やアイデアがひらめくところから小説を書き始め、書くにつれその場面やアイデアがひとりでに前進していくのだ。自分はそのような無意識の働きを大切にする。子供たちがお話の続きがどうなるのかと思いながら聞いているように、自分もまた書きながらこの先どうなるのかとわくわくしているのだ、と村上氏は語る。
 村上春樹作品が多くの読者の共感を得ている秘訣がここにある。もちろんこのようにして作品を創るに至るには、並はずれた集中力をもっての沈潜そして熟成の長い期間が必要である。誰にでもできることではない。
 村上氏のスピーチは秀才批評家に冷やかである。作家がもし分析的に物語を作ろうとするなら、物語固有の活力は失われ、作家と読者の間に共感も生まれないだろうと。
 私もそんな作家のつまらない作品を読んでしまうことがときにある。私にとっては費用と時間の無駄で、一種の災難である。たまたま出くわすと、その作家の本はもう二度と手にとらない。ある中堅作家が頭で設計しただけで書いた中編小説が昨年書評などで最高傑作のように紹介されて、そこそこ話題になっていた。作家の理屈を解釈しての仲間褒めである。映画にも評判だけは良いそんな作品がある。
 閑話休題アンデルセン『影』は、影を失った主人公が、独立して強大化した影に支配(復讐?)され、悲惨な結末を迎える童話である。訳者高橋健二氏は作品解説で、「かなり虚無的な深刻な大人の童話です」と書いている(アンデルセン童話全集第二巻)。村上氏のスピーチでは、アンデルセンは何かを発見したくて、結末がどうなるかなど分からないまま、物語自身が自動的に進むにまかせて書いたのだろうと推測している。同じ創作法をとっている村上氏が言うのだから、きっとそうなのだろう。

 アンデルセンのそのような試みは、彼自身の見たくない内面の影を発見してしまうことにもなるから容易ではなかったろうが、カオスの中の影を正視し、恐れることなく歩を進めたのだと、村上氏は称える。まるで江藤淳の『考える喜び』である。(江藤淳村上春樹を根こそぎ否定し、論じるに値しないという態度をとり続けた人である。酷評よりもひどい江藤の最高レベルの嫌悪感の表明であった)
 全部で14段落あるスピーチ原稿の12段落目から、個人を超えて社会や国家にとっても同じことが言える、と話が進む。暗い面や負の部分を見ることは嫌なものだが、世界が確かな立体像であるためには、影を持たなければならない。影を殺してしまえば、世界は奥行きのない幻影になってしまう。「影を生じない光は真の光ではない」(拙訳。以下同じ)
 そして最後の段落でメディアが注目する部分、「どれほど高い壁を築いて侵入者を防ごうとしても、どれほど厳しくよそ者を排除しようとしても、どれほど自分に都合よく歴史を書き換えようとしても、それは結局自分自身を損なって傷つけてしまうことになる。影と共に生きる術を根気よく身に着けていかなければならないのだ」
 影を正視しないでいると、(アンデルセンの童話のように)強大化した影がある夜あなたの家のドアをノックして、「戻って来たぞ」と囁くようになりますよ、と聴衆を脅してスピーチは終る。

 

 村上春樹の文学の軌跡は、孤絶した内面に沈潜し、沈潜を徹底することで壁抜けをして世界に繋がるという骨子を持っている。上のスピーチの前半から中盤すぎまでの内容も、個人の内面に関する話題である。それが終盤で突然国家の問題に飛躍するのである(メディアはここをクローズアップする)。
 現実に大量の難民の流入に直面しているヨーロッパの人々にとって、「影と共に生きよ」と安直に言われてどうなるものでもない。文学の言葉を政治に短絡するのは空しいだけである。
 この飛躍は村上氏の近年の発言の特徴である。人間の心に向き合う文学者の態度と、その個々人の心にも反映している歴史や政治の背景は、まったく無縁の二律的存在であるわけはないが、それを短絡する村上氏に私はかねがね批判的である。では短絡せずどのような架け橋が可能なのかは私にも分からない。ただ考え続けるべき問題として意識にはおいておきたい。

 

 急いで書いたので、まとまりがなくなってしまった。すみません。後日加筆するかもしれない。
(了)

 

【付録1】村上春樹氏のスピーチ『影の持つ意味』全文

www.asahi.com

【付録2】

拙文「加藤典洋村上春樹は、むずかしい』を読む」をあわせてご高覧くだされば有難く存じます。

y-tamarisk.hatenablog.com

 

村田沙耶香『コンビニ人間』がおもしろうて

 芥川賞直木賞の受賞作品を、それだけの理由で受賞直後に読んだことは今までなかった。ノミネートされる前に読んでいたとか、あるいは受賞して数年後に読む機会があった、ということは何度かある。
 だが村田沙耶香『コンビニ人間』は例外で、受賞1か月後の昨日読んだ。何となく嗅覚が働いて、面白そうだという予感に導かれたのだ。誰かの書評を読んだわけでもない。縁があったというしかない。


 主人公の古倉恵子は「普通の家に生まれて、普通に愛されて育った」のだが、社会常識からズレた「奇妙がられる子」だった。小学校入学間もない頃には、良かれと思って級友の男子の頭をスコップで思いっきり殴って周囲をパニックに陥れるとか、またまた良かれと思って若い女の先生に駆け寄ってスカートとパンツを勢いよく下ろしてしまうとか、本人は善意で大真面目なのだ。
 そんな「私」(古倉恵子)は、大学1年生のときにひょんなことから始めたコンビニ店員のアルバイトを18年も続けて、今は36歳。古ぼけたアパートの狭い部屋に独りで住んでいる。「私」は勤め先のコンビニで制服を着てマニュアル通りに振る舞うことで、普通の人間という皮をかぶって生きていくことができる。よく気が利く有能なベテラン店員で、店長の信頼も厚い。
 親や妹は「私」が「治る」ことを心から願っている。「治る」とは常識人になることである。学生時代に顔見知り程度だった旧友たちも、コンビニに居場所を見つけて一皮剥けたかに見える「私」に友好的である。「私」はそれらの常識人との交わりを通じても、「異物感」という内なる自己認識から自由になれない。コンビニで完璧な部品として機能しているときだけ安らげるのである。


 と、こういうふうに紹介すると、暗~い小説のように誤解されそうだ。ところがあにはからんや、弟知らんや、全篇がユーモラスな空気に包まれているのである。
 私は電車の座席で読んでいたのだが、笑いたくなった場面が何度もあった。ファミレスでのプロポーズの会話など、もう吹き出しそうになった。電車の中なので声を出して笑うこともはばかられ、とっさに先々代二子山親方(初代若乃花)が「人間辛抱だ」と言ってるときの顔を思い浮かべて、何とかこらえた。

 

「突然なにを言ってるんだ。ばかげてる。悪いですけど、僕は古倉さん相手に勃起しませんよ」
「勃起? あの、それが婚姻と何の関係が? 婚姻は書類上のことで、勃起は生理現象ですが」(87頁)

 

 続いて電話で「私」と妹のちぐはぐな会話。「私」の報告を勘違いして大はしゃぎする妹の描写など、読んでいて笑いをこらえきれず、もう俯いてにやけていた。


 共同体に適応できない個の悲しみ。同じテーマを凡手が描くと、暗くなったり、憤怒に燃えたり、たいていの場合、適応できない個を高みにおいて常識人を見下す筆致になるものである。『コンビニ人間』では、すべての登場人物(常識人)がそれぞれ個性鮮やかにくっきりと描き分けられ、かつ作者の眼差しが暖かい。「私」も誰に対しても恨みや嫌悪の感情を持っていない。
 小説中盤の圧巻は、「私」の学生時代の仲間やその家族たちとのバーベキューパーティーの場面である(71-77頁)。群像の活写が見事というほかない。パーティーの場面は次のように締めくくられる。

 

 あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。
 店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。
 正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。
 そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。
 家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。(77頁)

 

 上に出てきた「白羽さん」は30代半ばの社会不適格者で、プライドだけが異様に高いダメ男である。不適格の程度とプライドの高さ、それぞれが因となり果となってスパイラル状に昂進していくような男である。
 小説後半は「私」と「白羽さん」の掛け合いを軸に展開していく。「白羽さん」は「私」と同類かといえば、けっしてそうではない。「白羽さん」は社会を呪詛しているが、その社会の価値観に即して自分のプライドを保とうとしている。支離滅裂である。「私」は共同体の常識からズレてしまった人間なので、その価値観に即し得ないのだ。コンビニの部品に徹することでかろうじて自分を保って(自分を偽って)いるのである。
 「白羽さん」は「私」に向かって「処女のまま中古になった女がいい歳をしてコンビニのアルバイトをしている」と毒づく。

 

「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでいるわけでもなく、それどころか社員でもない。アルバイト。はっきりいって、ムラからしたらお荷物でしかない。人間の屑ですよ」
「なるほど。しかし、私はコンビニ以外では働けないんです。一応、やってみようとしたことはあるんですが、コンビニ店員という仮面しかかぶることができなかったんです。なので、それに文句を言われても困るんですが」(98-99頁)

 

 というように、「私」は「白羽さん」からひどい侮辱の言葉を散々浴びせられ続けても、傷つくこともなく、怒りの片鱗さえ見せない。「白羽さん」は毒づきながらも、「私」に対して母性に依存するかのように甘えているところがある。他方「私」は「白羽さん」に対して好悪いずれの感情も一切持っていないかのようである。
 感情を失ったかのような「私」も、一瞬心を動揺させる場面がある。コンビニの同僚店員たちが「私」を褒めたときである。

 

「古倉さんって、怒らないですよね」
「え?」
「いえ、古倉さんって偉いですよね。私ああいう人だめなんですー、イライラしちゃって。でも古倉さんって、ほら、私や泉さんに合わせて怒ってくれることはあるけど、基本的にあんまり自分から文句言ったりしないじゃないですか。嫌な新人に怒ってるところ、見たことないですよね」
 ぎくりとした。
 お前は偽物だと言い当てられた気がして、私は慌てて表情を取り繕った。(50頁)

 

 共同体に違和感を持っている孤独な人間が、目の前の小さな仕事を丁寧に丁寧にやり遂げる。もっともらしく偉そうな言葉を吐いていい気になっている人間よりも、目立たないが実質はるかにいい仕事を黙々と仕上げる。そんな登場人物は村上春樹の初期短編でも描かれていた。
 コンビニの「私」もまた、実に小さなことにもよく気が回り、日々誠実な仕事を重ねている。それは孤独ゆえの仮面の姿なのである。
 この寂しい人間の姿を、暖かくユーモア漂う筆で描き出した『コンビニ人間』は素晴らしい作品だと思う。

 

 だからといって、人に薦める気にはならない。嗜好は人それぞれである。もしこの作品を任意の誰彼に「面白いよ」と薦めても、「読んだけど、どこが面白いのかさっぱりわかんね。あんた変な人だね」とバカにされるのが大方の反応だろう。私の生活実感である。
 あるいはまた、文学作品の価値を政治や歴史の副教材としてしか見出していないらしい一部の知識人(?)の目には、『コンビニ人間』など1ミリの価値もない駄作にしか映らないだろう。
 人それぞれである。だからむやみに人に薦めたりしない。

 

 私はこの作品を単行本で読んだので、文藝春秋今月号に掲載されている芥川賞選考委員諸氏の選評は読んでない。ただ一人山田詠美氏の選評の末尾数行だけ、先程書店でチラ見して来た。芥川賞の選考委員を十数年続けてきたが、候補作を読んで笑ったのはこれが初めてだ、というようなことを詠美氏は書かれていた。この作品で笑いを共有できる人とは仲良くなれそうに思う。仲良くなる予定は特にないのだけれども。
(了)

藤田嗣治が描いた戦争画からの連想

 デスク前の壁に、藤田嗣治作『カフェにて』の絵葉書を小さな額に入れて飾っている。パリのカフェでテーブルに頬杖をついて物憂げな表情を浮かべた若い女性が描かれている。藤田嗣治のトレードマークともいうべき乳白色の肌が黒いドレスとのコントラストで映えている。
 2006年の春に東京国立近代美術館で催された藤田嗣治展で購入した絵葉書だ。10年近くの間、毎日目に入ってくる絵なので、私の日常の一部になっている。書物からふと目を離したときやキーボードを打つ手を休めたときなどに、ぼんやりとこの絵葉書を眺めていることがよくある。
 それについて何かを考えるということもなかったのだが、最近観た映画やTV番組がきっかけとなり、この絵が描かれた時代背景について、同展で購入した図録を開いて復習してみた。
 この絵にはいくつかのバージョンがあり、制作年は1949-63年となっている。私が目にしている作品が何年のバージョンかは不明である。藤田がこの作品の着想を得たのは、追われるようにして日本を離れしばらく滞在していたニューヨークでのことであり、その絵にはパリへの望郷の思いが投影されていると解説文に書かれている。
 藤田がニューヨークを経てパリに復帰したのが1950年で、55年にはフランス国籍を取得している。49年に羽田での記者会見で「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩をしないでください」と捨て台詞を残して旅立ち、68年に没するまで二度と日本の土を踏むことはなかった。
 敗戦後の日本の画壇は、GHQを恐れ、GHQにより与えられた史観におもねり、藤田を戦争協力者のスケープゴートにして批判を浴びせた。1946年に発足したばかりの日本美術会は「戦争画藤田嗣治」の責任追及を決議し、美術界の戦犯として一人でその罪を引き受けよと藤田に通告した。藤田はこの年からフランス行きの準備を始める。
 日本国籍を捨てた藤田は、日本の美術界に都合よく使い棄てにされたこと、人の策動、嫉妬、迫害に悩まされたことなどについて強い憤りをもって語っている。


 さて藤田嗣治戦争画とはどのような作品なのだろうか。
 私がそれらの実物を観たのは、上に述べた2006年の藤田嗣治展でのことである。それは藤田の20代前半から晩年にいたるまでの97点の作品が出品された大規模な展覧会だった。展示は3つの章から構成されていた。「第1章エコール・ド・パリ時代」「第2章中南米そして日本へ」「第3章ふたたびパリへ」の3つである。戦争画はもちろん第2章の一部で、「戦時下で」と題された一室での展示だった。全部で5点。いずれも縦横2メートル前後の大作である(最大で横362cm)。
 最初に観たのは『シンガポール最後の日(プキ・テマ高地)』(1942年)だったように記憶している。従軍画家としてシンガポールの戦線で描いたスケッチをもとにして帰国後に完成した作品だ。シンガポール攻略を目指す兵士たちの匍匐前進の姿と、陥落寸前で燃え上がるシンガポールの遠景が描かれている。絵の目的は銃後の日本人の戦意高揚である。


 パリ時代の若き藤田は、日々の食費にも事欠くような8年にも及んだ困窮生活を経た後に大ブレイクし得意の絶頂の時期を迎えたが、世界不況の頃から絵が売れなくなり、また連日の乱痴気騒ぎでの借金もかさんでおり、1933年に帰国する。1938年には海軍嘱託として中国戦線の取材を実施し、戦争の記録画を描き始める。だが日本の画壇と折合いが悪く、パリへの思いが断ちがたかった藤田は、1939年に5人めの妻(日本人)と共にフランスへ旅立つ。しかしすぐに大戦が勃発し、翌年ナチスがフランスに侵攻したのを見てパリを脱出した夫妻は、1940年に再び帰日した。日本の中国戦線は見通しもないまま奥深く拡大しており、翌年には対米英開戦にいたる。戦争の記録画家としての描写力を高く評価した軍部(陸軍、海軍とも)は藤田を重用し、テレビなどがない時代、戦争画を戦意高揚のための格好のプロパガンダ手段として利用した。藤田もその要請に積極的に応え、戦争画を量産したのだ。上記『シンガポール最後の日(プキ・テマ高地)』はその頃の一点である。日本各地を巡回した「聖戦美術展」に押し寄せた銃後の国民は、この絵を観て、日本軍の進撃に大いに快哉を叫んだことであろう。


 2006年の藤田嗣治展に戻ろう。次に観たのが『アッツ島玉砕』(1943年)、『血戦ガダルカナル』(1944年)、『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945年)などの群像画である。ミッドウエーの海戦(1942年)で大敗を喫し、日本の戦局が大きく悪化してからの作品である。
 たいして予備知識を持たないままこれらの群像画を観た私は恐怖で足がすくんでしまった。この阿鼻叫喚の地獄絵のどこで戦意が高揚されるというのだろう。


 会場を出てから私は、ヴェトナム戦争を題材とした映画『プラトーン』(オリヴァ―・ストーン監督・1986年米)を観て凄い恐怖感に包まれた以前の体験を思い出していた。ヴェトナム戦争の映画では、『地獄の黙示録』(フランシス・コッポラ監督・1980年米)でも背筋がぞくぞくと冷たくなった。映像以上に、言葉を紡いで想像力に訴えかけてくる小説作品で味わう恐怖心はもっと深い。ティム・オブライエンの連作短編集『The Things They Carried』(1990年)(邦題は『本当の戦争の話をしよう』・村上春樹訳・文春文庫)(注) を読んだときにもただごとならぬ恐怖を感じた。
(注)『The Things They Carried』(彼らの担ったもの)も『本当の戦争の話をしよう』(How to Tell a True War Story)も、どちらもこの本に収録されている短編の題名である。

 私がなぜヴェトナム戦争を題材とした作品からことさらに恐怖を感じるかといえば、自分にとって「あったかもしれない」パラレルワールドの“現実”を見るからである。
 私は、1952年に講和条約が発効して日本が主権を回復しようとした(「回復した」とはいえない)ときに、自主憲法を制定しておくべきだったと考えている。遅くとも、岸内閣が抱いた日米安保条約改定と憲法改正への志のうちの後者を、「戦後最大の国民運動」で葬るべきではなかったと考えている。そして私がそうあるべきだったと考えている戦後日本のパラレルワールドでは、重武装中立が空理空論である以上、日米同盟のもと日本もヴェトナム戦争に参戦していた可能性がある。私の年代の人間はヴェトナムのジャングルに送り込まれていた可能性があるのである。だからもうひとつの世界にあったかもしれない“現実”から凄まじい恐怖が押し寄せてくるのだ。そのパラレルワールドを善しとしている以上、ヴェトナム戦争には心理的責任があるのだ。


 それはさておき、『アッツ島玉砕』や『血戦ガダルカナル』で描かれている残酷で凄惨な場面は、私がもっと早くこの世に生を受けていれば放り込まれていたかもしれない“現実”である。いったいこれのどこが戦意を高揚させる絵なのか。恐ろしいばかりではないか。
 だからなのだろう。これらの作品には藤田の反戦の意思が込められているという人たちがいる。今公開中の映画『FOUJITA ―フジター』(小栗康平監督)でオダギリジョー演じる藤田嗣治は、日本の戦局悪化を見て、敗戦を予想するような発言をしている。これは小栗が理解している藤田像で、それはそれでいいのであるが、実際の藤田は少なくとも公にはそんな弱気の発言をしていない。
 ではなぜ小栗が戦中の藤田像をそのように捉えたかというと、『アッツ島玉砕』などの凄惨な絵に漂う悲哀感を読み取ったからではないかと推測する。そしてそれは小栗の的を射た読みだと思う。折り重なるおびただしい屍を踏みつけて敵味方入り乱れるなか、刀を振り回し、虚空を見上げながら何かを叫んでいる兵の悲しげな表情は何だろう(これはアッツ島守備隊隊長・山崎保代大佐の姿を描いているのだと後日知った)。
 アッツ島ガダルカナル島サイパン島も直接の取材によるものではなく、藤田の想像による作である。実際のアッツ島では、このような高密度の肉弾戦は行なわれていない。突撃して玉砕、それだけだったのだろう。
 戦意高揚という軍の要請に応える計算もあったのだろう、殺されている兵のほとんどは米兵である。だがキャンバスに向かう画家の心には戦意高揚の目的も反戦の意思もなく、戦場の極限状態での人の本性を描くことにのみ向かったのではないだろうか。
 『サイパン島同胞臣節を全うす』では、やがてバンザイクリフで自決することになる民間人の男女の、追い詰められながらも毅然とした表情を保っている姿や、ひたすらに祈る姿が描かれている。なかに一人立ったままで絵の鑑賞者に視線を向けている負傷兵がいる。どのようなメッセージを鑑賞者に送っているのか、などと解釈はしないほうがよいと思う。生きて在ることがただ悲しい。
 絵の前では恐怖心に捕われた私だったが、日を置いて冷静になると、これらはある種の宗教的な心から生み出された作品ではなかったろうかと思うにいたった。


 今年12月17日にNHKBSプレミアムで放送された『英雄たちの選択・藤田嗣治アッツ島玉砕”の真実』の中で、秋田県立美術館が展示している藤田嗣治1937年の作品『秋田の行事』が紹介されていた。1年を通じた秋田の暮らしを描いた壮大な壁画である。祝祭の場面では、生命のエネルギーが噴出するかのような群像の姿が描かれている。番組で同館学芸員の原田久美子氏が、祝祭と戦争というテーマで、人々が放縦に絡み合うこの群像画と『アッツ島玉砕』に通底する生命のエネルギーへの画家の関心について語っていた。『秋田の行事』にまったく無知だった私は、原田氏の説明を聞いて、「なるほど、そういうことだったのか」と膝を打った。
 収録で出演した美術史家の林洋子氏は、『アッツ島玉砕』には描くことの喜びがあふれ出ていると指摘する。
 スタジオ出演者のうちでは、「芸術家はファシズムに批判的であるべきだ」とか「戦争協力は結果的にまちがっている」とかの意見が飛び交うなか、国際政治学者の三浦瑠麗氏は、表現するという芸術家の本分について語っていた。人類の本質である暴力、敵意、死に対する恐れ等、人間の運命が詰まっている悲劇を前にして芸術家なら奮い立つのが当然だ、と。また、三浦氏は絵を観るときの視点として、好き嫌いよりも本物か偽物かという見方を大切にするとも語る。藤田が戦争を描いた作品には人間の本質が出ている、同胞の死に対する共感も感じとれ、本物だと思う、と。
 この言葉を受けて作家の高橋源一郎氏は、自分は藤田の作品が好きだが、本物か偽物かというと、どこか微妙に嘘くさい、偉大なる偽物だ、と言う。このへんの言葉のやり取りは大変おもしろかった。高橋氏が言うには、藤田は本当に描きたいものがあって描くのではなく、テーマはその時々に見つけていくいい加減なところがある。だが描きあげた絵は素晴らしい。藤田が戦時中に書いた文章は、「戦争、えいえいおー」みたいなものばかりで、読まなきゃよかったというようなひどい代物だ。だが絵を描き始めると、藤田の知性は手に宿り、反戦も厭戦も好戦もない素晴らしい作品ができあがるのだ、と高橋氏は語る。単刀直入に核心をついたことを言う人だ。

 

 ちょっと脱線して余談に入る。私は高橋源一郎氏の作品については、デビュー作の『さようなら、ギャングたち』(1981年)や『優雅で感傷的な日本野球』(1988年・第1回三島由紀夫賞受賞作品・江藤淳が絶賛)を80年代にそれぞれ読んだ。その後は新聞、雑誌、単行本等で評論文やエセ―をたまに読んだことがある程度で、あまり熱心な読者ではない。だが、氏の政治的意見には同意しないが、時々鋭く心に入ってくることを言う人なので、いつも気にはなっている。上のTV番組での発言もそうである。最近読んだ文章では、ネットの言論サイト「ポリタス」の2015年8月18日欄に掲載された『死者と生きる未来』がよかった。女衒をして糊口をしのいでいた若い頃の回想から始まるこの文章には、強く胸をうたれた。

 

 閑話休題。日本の戦局が悪化してからの藤田の戦争画は、戦意高揚とか反戦とかの政治的メッセージを突き抜けて、「手に宿った知性」が喜んで描いた作品なのである。
 芸術がイデオロギーから生まれるものでないことはいうまでもない。芸術作品を政治的価値観から解釈するような考察は浅墓な試みだ。美術であれ、音楽であれ、文学であれ、芸術作品は心を持った人間存在の深奥から生まれてくる結晶なのだ。
 『アッツ島玉砕』などの藤田の戦争画は、戦争を描いていてもその心は戦争ではなく、秋田の祝祭や、あるいはカトリックに改宗した晩年に礼拝堂のステンドグラスに描いた骸骨の積み重なりに通底する調べを奏でている。
 先に触れたティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』日本語版の「あとがき」で訳者の村上春樹が書いている。

 

オブライエンはもちろん戦争を憎んでいる。でもこれはいわゆる反戦小説ではない。あるいはまた戦争の悲惨さや愚劣さを訴えかける本でもない。この本における戦争とは、あるいはこれはいささか極端な言い方かもしれないけれど、ひとつの比喩的な装置である。それはきわめて効率的に、きわめて狡猾に、人を傷つけ狂わせる装置である。それがオブライエンにとってはたまたま戦争であったのだ。そういう文脈で言うなら、人は誰もが自分の中に自分なりの戦争を抱えている。そしてある意味では誰もが本当の戦争の話を語れるはずなのだ。だから本当の戦争の話とは戦争についての話ではないのだ・・・・・・それがオブライエンの言いたかったことではないだろうかと私は推測する。(傍線は原文では傍点)

 

 戦争をモチーフとした優れた芸術作品は、戦争を突き抜けて、人間存在の本質を描き出す通路を内包しているのである。
(了)

 

〔附記1〕
 2006年の東京での藤田嗣治展は、上に述べたように100点近い作品が出品された大規模な展覧会だった。そのなかで戦争画5点が一室にまとめられていたことは先述のとおりである。それはいい。だが、この部屋だけが照明が落とされて薄暗くなっていた。いったいこれは何なのだ。
 戦争の悲惨さを強調するための演出なのか。あるいは、他の部屋にあるような輝かしい作品をたくさん残した偉大な画家藤田嗣治の、これは暗部なのだという主催者からのメッセージなのだろうか。真意はわからないが、ほかに理由も思いつかないから、このどちらかあるいは両方なのだろう。
 視覚が命の美術鑑賞の場で、なぜわざわざ作品を見づらくするような処置を施すのか。どこのコンサートホールがわざわざ音響効果を損なうような改装をするか。寿司をわざわざオブラートでくるんで客に差し出す寿司屋がどこにいるか。「へい、お待ち」とか言って・・・
 そんな意地悪をしちゃいけないぐらいのことは、幼児にもわかる道理である。こんなあたりまえの道理を踏み外させる“精神”とはいったい何なのだろう。
 主催者(東京国立近代美術館・NHK・NHKプロモーション・日本経済新聞社)のうちの誰の思いつきだったのか知らないが、それをとめる人がいなかったのだろうか。
 戦争画も他の部屋と同じ通常の照明のもとで観たかった。美術館を出てからふつふつと怒りが沸いてきた。私は怒りの反応がしばしば遅れるのである。
 意地悪をされての腹立たしさはその場限りのものである。だがこのような愚行(←愚考)は、70年間今日にいたるまで、形を変えて至る所に偏在している。戦後イデオロギーが支配する“空気”への怒りは、単にその日の過去形で語ってすむことではなく、I have been angry.なのである。
 なお2015年秋にも東京国立近代美術館で、同館が所蔵する藤田嗣治の作品展があり、私は観に行かなかったが、今回は戦争画も通常の照明で展示されたのだろう。あたりまえのことだ。

 

〔附記2〕
 本文でも少し触れた映画『FOUJITA ―フジター』(小栗康平監督)は、前半で若き藤田嗣治のパリ時代(エコール・ド・パリの時代)の活躍を描き、後半は戦時下日本での日々の暮らしや戦争画制作と公開のようすを淡々と映している。
 ネットでは悪評が多いようである。私が観たのは12月19日だったが、土曜の新宿であったにもかかわらず、座席数84の小劇場の半分かあるいはそれ以上が空席だった。
 ストーリーの起伏はあまりなく、場面と場面のつながりがわかりにくいところもあり、退屈な映画かもしれない。
 これは小栗康平の映像美を楽しむ映画だと思う。と言っても、目にまばゆい鮮やかな風景が描かれているわけではない。色調は全体に暗く、小栗康平の監督処女作品『泥の河』(1986年)で描かれたモノクロの映像美を彷彿とさせる。
 『泥の河』は心に沁みる悲しさが多くの人々を惹きつけた名作だった。ストーリーは年月を経て忘れてしまうが、哀切感の漂う美しい映像から受けた印象はいつまでも残る。
 『FOUJITA』の映像は美しい。日本の農村風景も美しい。パリの安アパート室内での逆光場面も美しい。ちょっとした何てことのない暮らしの光景が美しい。一時停止のボタンを押せば一幅の絵画になってしまうようなシーンがいくつもあった。映画館の座席に一時停止のボタンはついてないけれど。
 これは小栗康平藤田嗣治へのオマージュである。

 

〔附記3〕
 村上春樹が「僕」でなく「私」と書く文章は大変珍しい。

 

岩田温著『人種差別から読み解く大東亜戦争』を読んで考えたこと

 今年も8月のTV番組や映画は昭和の戦争を回顧するものが多かった。例年以上に多かったというべきかもしれない。70年目という節目の年であるからだけでなく、国会で審議中の平和安全法制整備法案への反対の声がマスコミ主導によって盛り上がっている流れのなかでの現象だろう。
 私はそれらの番組を見ていないのだが、当時の日本の指導者の迷走と戦場の悲惨さや兵士の苦闘が語られたのだろう。そして銃後の人々の辛く苦しい生活、さらには空襲、原爆投下による惨劇に至ったことも語り継がれたのだろうと思う。
 日本は好戦的な軍人や愚かな政治家のせいで間違った戦争をした、アジアの人々にひどいことをした、そして人々は昭和20年8月15日にようやくその苦しみから抜け出せた、という定番の史観が毎年8月にTVから流れてくる。NHKの歌番組では、「りんごの唄」が日本の津々浦々で唄われた戦後の明るい世相を映し出し、最後に出演者一同が「青い山脈」を斉唱する。今年もきっとそうだったのだろう。
 平成の御代に暮らす日本人の多くは、昭和20年8月から現代が始まったと考えている。それまでは過ちの時代なのだそうだ。
 このように過去を切断してしまった人たちには、21世紀の今日という世界が正しく認識できるわけはないのである。安保法制改定案に対しての、各種世論調査では国民の大半に漂っていると思われる、愚かな情緒的反対の声がその表れである。

 

 岩田温氏の近著『人種差別から読み解く大東亜戦争』(彩図社)は、戦わざるを得なかった昭和の戦争を、当時の日本人の視点に立って捉えようとした好著である。
 著者が「まえがき」で書いているように、「歴史とは様々な原因が複雑に絡み合って生じた出来事であり、たった一つの理由だけで、大東亜戦争を説明できるはずが」ないのであり、「人種差別」の問題だけが戦争勃発の要因ではないと断わったうえで、本書では「人種差別」に対する日本人の憤激に照準を合わせて戦争に至る政治の流れが語られている。複雑に絡み合った要因のなかから「人種差別」の問題に焦点を絞ったのは、当時の大衆がなぜこの戦争を支持したのかという点に著者の問題意識があったからだろう。
 「人種差別」の宿痾を考察する著者の視野は広い。古代ギリシアでの奴隷制擁護論から始まり、キリスト教徒がグローバルに展開した先住民の虐殺と奴隷化、そして近代の帝国主義の時代にあっては白人の過酷な植民地支配等々が各章で生き生きと語られる。
 キリスト教精神に基づく白人の独善と有色人種からの収奪や蛮行が世界を覆うなか、アメリカでの日本人移民に対する排斥感情の高まりと理不尽な差別的法律の施行に直面して、日本本国でも国民は憤激する。それ以前の三国干渉で受けた屈辱もあった。私憤が公憤となり、政治を動かす。しかし国際政治の場で日本が主張した「人種差別撤廃」は受け入れられなかった。後年日本はアジアの白人からの解放を謳って「大東亜会議」を主導する。
 対米英開戦時や戦時中に日本人の多くは日本の戦争を支持していた。そのことは今の日本人も一応は知っている。そして今の日本人は言う。「彼らは騙されていたのだ。徴兵され戦地で命を落とした人たちも騙された被害者で、可哀そうに犬死にだったのだ」と。
 今の感覚で歴史を裁断してはいけない。その時代を生きた人々の生活実感に想像力を働かせなければ、けして歴史は見えない。
 白人が支配する世界への憤激、この感情が当時の日本の大衆に広く共有されていたことを岩田氏の叙述は明らかにしている。騙されて憤ったのではない。
 学校では教わらない歴史である。本書が多くの資料と学識に裏付けられていながら、著者の語り口は平易である。若い人たちに読んでもらいたいという著者の願いがこもっているからだろう。若者は著者の真摯な願いに応えなければいけない。

 

 さて、戦争に至った様々な要因の絡み合いのなかで、「人種差別」の問題にだけスポットがあてられたのだが、それはそれで、ある一つの問題の考察という意味で意義がある。ただその場合にも、一つの問題を多面的に考えることが大切だろう。その点、本書は一面的である。
 例えば著者は、第一次大戦後のパリ講和会議で、設立が計画されていた国際連盟の規約に「人種差別撤廃条項」を挿入することを目指した日本代表団の懸命の努力奮闘ぶりを描く。当該案は幾度か跳ね返され、妥協案を練り、しかし最終的にウイルソン議長(米大統領)の理不尽な処決によって潰されてしまう。著者は日本の交渉努力と参加諸国の冷ややかさを描き出す。一面の真実である。
 だが、講和会議全体を見れば日本はほとんど蚊帳の外に置かれていて、会議中も日本代表は沈黙に終始することが多く、ついには主要五大国のうちの他の四国から邪魔者扱いをすら受けていたのだ。大きな国際会議の場での不慣れや、本国と代表団の意思の疎通の煩雑さ等によるものだったが、本質的には、会議で参加諸国家間に共有されていた大戦後の国際情勢への問題意識と、日本の問題意識がずれていたことが原因だった。日本は大戦の主要戦場から遠く離れていて大きな被害もなく、未曽有の巨大な戦禍を被ったヨーロッパ諸国が共有した問題意識を持てなかったのである。
 日本の「人種差別撤廃」の訴えは、人道的見地からまことにもっともな主張だったが、他の議題についていけないその姿は、後年の国際社会での日本の孤立を予感させるものであった。
 今も新しい読者を獲得し続けている超ロングセラー『国際政治』(中公新書・初版1966年)で高坂正堯は書いている。「戦前の日本外交の失敗は、国際政治に対する日本人の想定と国際政治の現実とのずれに根ざしていたのである。」(傍線は原文では傍点)と。

 

 戦争中の昭和18年(1943年)11月に東京で開催された大東亜会議について、岩田氏は、人種平等の理念と植民地解放の大義を掲げた世界史的意義を持つものとして評価する。岩田氏は、東條英機首相が主宰した大東亜会議を、それ以前に外交官重光葵が『手記』で著した東洋の解放と民族自決の理念にフラットに並列させている。だが私はそこに段差があることに関心を向けざるを得ない。
 1941年8月にルーズヴェルト米大統領とチャーチル英首相による共同宣言が公表された。大西洋憲章である。憲章は戦争の目的と併せて戦後の世界秩序を展望する宣言であり、民族自決の理念も謳われていた。しかしその理念はヨーロッパでの民族自決にとどまり、けしてアジア・アフリカの植民地に及ぶものではなかった。
 これに対抗して重光葵は、東洋の植民地解放、人種平等、民族自決の理念を掲げる大東亜憲章策定の必要性を訴えたのだ。重光の考えた共栄圏内の連帯は各国の平等を前提とするものであったが、現実に政府が打ち出した大東亜共栄圏構想では、戦争遂行のための資源確保を第一の目的とした日本による共栄圏支配の意図が明らかであった。例えばインドネシアはこの会議への参加を拒まれた。産油国インドネシアを「帝国領土」から解放することを、たとえ建前上であっても、日本の軍部は許容できなかったからである。
 もちろん国際政治は綺麗事だけで済む言葉の遊び場ではない。あくなき国家利益の追求行動が常に人類普遍の理想主義の装いをこらしているのである。「人種差別」に対する国民の憤激も、重光葵の問題意識も、人としての真情から出たものである。その真情を吸い上げて権力のイデオロギーに転化するのが政治の常である。古今東西たいていの権力イデオロギーは、人々の素朴な欲求が吸い上げられて物象化されたものを含んでいる。
 上に書いた重光の大東亜憲章への理念と日本政府主宰の大東亜会議の間の「段差」とはそういう意味である。
 ならば大東亜共同宣言に結実する大東亜会議の精神は、権力政治としての国際政治の次元で捉えなければならない。その次元で大東亜会議を理解するためには、日本が日中戦争の泥沼化と国際的孤立化のなかで南進作戦を採り、ついには対米英開戦に至った延長線上でこの会議を捉えるべきであり、単に「人種差別」の問題ではないのである。その線上では、第一次大戦後のパリ講和会議に始まる戦間期に見られた日本政治の国際感覚の欠如もしくは “ずれ” が一貫している。
 『人種差別から読み解く大東亜戦争』でスポットをあてられた「人種差別」の問題を多面的に捉えるとは、「人種差別撤廃」の主張が国際政治への認識の “ずれ” のもとで叫ばれたという悲しさを知ることでもある。

 

 この本は若い人たちにたくさん読んでもらいたいと思う。日本の戦争には、日本の視点から見た大義があったということを知ってもらいたい。そのうえでしか戦後70年は語れないのである。昭和20年8月を始点として現代があるのではない。
 良い本を読むと、著者との対話を通じて自分の考えを深めることができる。どれほど素晴らしい本であっても、著者に盲従してはいけない。考える機会をもたらしてくれる本が良い本なのである。と、若い人たちに言いたい。 (了)

白日夢

 暑いときも寒いときも、土砂降りの雨や大雪が降らない限り、私は日に二度の中長距離散歩を日課としている。不動産鑑定の仕事をしていた頃も、車を役所の駐車場に置いたまま、調査地点まで少々の距離があっても、時間の許す範囲で歩いて往復したものだ。
 昔から哲学者はよく歩いたという。カント、ルソー、古くはアリストテレス・・・ 京都には「哲学の道」と呼ばれる小径がある。西田幾太郎やその弟子たちが歩きながら思索を重ねた散策路である。
 あるいはアップルの創業者故スティーヴ・ジョブズ氏は、考えをまとめたいときにはよく道路や公園を散策したという。
 私にはこれがよく分からない。歩きながらものを考えるなんてことは、私にとっては、踊りながらざる蕎麦を食べるのと同じぐらいの難題である。歩行に合わせて脳が揺れ動いているのに、どうしてじっくりとものを考えることができるのだろう。
 村上春樹氏など走りながらものを考えているようである。異常である。暴挙というしかない。
 私の場合は、歩行の振動に合わせて、脳にとりとめもない些事が脈略なく次から次へと浮かんでは消えていくのみである。タイミング悪くお巡りさんに出くわすと、「あなたは今エッチなことを考えていましたね。現行犯で逮捕します」ということにもなりかねないのだ。

 

 二週間ほど前のことである。残暑の厳しい日だった。歩く私の横を白いプリウスが静かに通り過ぎた。「アベ政治を許さない」というポスターが、リアウインドウに内側から貼り付けてあった。金子兜太氏の書だ。澤地久枝氏の呼びかけで全国に普及したポスターである。澤地氏のサイトでダウンロードすれば簡単に入手できる。
 プリウスは交差点の前で停止した。私も横に並んで立ち止まった。車内には一人だけ、柔和な顔つきのおっさんがハンドルに手を乗せていた。見知らぬおっさんだ。幸い知人ではなかったので、どのような人物像を思い描こうと私の妄想のままである。
 安倍政治に対してそれなりの見識を持って批判する人はいい。私も安倍内閣の政策について批判をいくつか持っている。だがこんな流行りのポスターを車のリアウインドウに得意げに掲げている輩にろくな奴はいない。妄想は暴走する。窓越しにおっさんの横顔を見つめながら、「おまえ脳を使うことがあるのか。どうせ持ち腐れにしているのだろう」と心の中で毒づいておいた。
 やがてプリウスは交差点を右折し、私は直進した。炎天下をしばらく歩いて緩やかな上り坂に差しかかると、陽炎が揺らめくなか、前方からさっきの柔和なおっさんが「アベ政治を許さない」のポスターを掲げながら歩いて来るではないか。隣にはお仲間の丸顔のおばさんが同じポスターを掲げて歩調を合わせている。二人とも薄笑いを浮かべている。薄笑いが顔に貼りついたままで、表情は変化しない。
 私は一瞬目をつぶってしまった。目を開くとおっさんとおばさんは二組の四人に増えていた。また目をつぶって、次に開くと四組八人に増殖し、次第に十六人、三十二人・・・ 加速度がついて増えていく。

 おっさんどうし、おばさんどうしは皆同じ顔で、完璧なコピーだ。「アベ政治を許さない」のポスターを胸の前に掲げ、薄笑いを顔に貼りつけている。私は子供の頃に小泉八雲の怪談『むじな』を読んで味わった恐怖感を思い出していた。『むじな』はのっぺらぼうとの遭遇譚である。
 おっさん、おばさんたちと私は交錯した。私は何とか群衆を掻き分けて坂を上っていたのだが、幾万人にも膨れ上がってしまった大群の流れに逆らい続けることはできず、ついに彼らの行進に呑み込まれ、不本意ながら私も坂を下って行くことになってしまった。

 

 ポスターをリアウインドウに掲げたプリウスに遭遇し、交差点で別れたところまでは事実の記録である。そのあとは、歩行に合わせた脳の振動が紡ぎ出した妄想である。幸いお巡りさんに出くわすことはなかった。

 この白日夢がきっかけとなり、拙ブログ『月下独酌』に『平和安全法制をめぐる大衆世論の危うさ』と題した文章をしたためた。ご高読いただければ幸甚である。

http://y-tamarisk.hatenablog.com/

煽る政治屋たち

 安保関連法案が施行されると徴兵制への道を開くというデマが、にわかに声高に叫ばれるようになってきた。以前から片隅でぶつぶつと同じようなことを言っている人たちはいたが、大通りに出てきたのはここ1週間余りのことだ。

 民主党の首脳部がどうやら、「徴兵制反対」をスローガンとすることに決めたようだ。

 先陣をきって岡田克也代表が6月17日の党首討論で、「将来、徴兵制が敷かれるんじゃないかという議論がある」などと、発言の責任を他者に預けるような卑怯な言い方で突撃ラッパを吹いた。

 これを受けて寺田学衆議院議員が19日の衆院平和安全法制特別委員会で自身の1歳の長男をだしにして、妻の「徴兵制への心配」を発言のなかに織り込んだ。

 細野豪志政調会長は21日のブログで「徴兵制について考える」という文章をものした。

 枝野幸男幹事長は仙台の街頭演説で「次は徴兵制ですよ、みなさん」とアジり(21日朝日新聞)、24日の記者会見で同趣旨の発言を行なった。

 党として足並みを揃えて「徴兵制反対」をアジる方針に舵をきったのはまちがいないだろう。

 徴兵制への危惧なるものが非現実的な妄想にすぎないことは、多くの識者が繰り返し指摘していることである。まして現在審議中の法案とは何の関係もない。ここでは民主党の主張(?)の誤りについて論じるつもりはない。「徴兵制反対」のスローガンの誤りについて、まともに反論してもあまり意味があることと思えない。なぜなら、彼ら自身がこのスローガンを本気で信じているとも思えないからだ。彼らは大衆を煽る便利なキャッチフレーズを見つけて、それを弄んでいるだけである。大衆を馬鹿にしているのだ。馬鹿にされるほうも相当に悪い。

 民主主義が健全に機能しているのなら、この法案審議は、日本の外交と国防政策を考える絶好の機会となり得たはずだ。そこで異なる意見がぶつかり合って、法案への賛否を含めて激論が戦わされているのなら、その議論を国民大衆にものを考える資として供することができたはずだ。

 ところが政府は世論の反発に及び腰で、野党は愚民の劣情に便乗しそれを煽る行動しかとっていない。

 政府は単にホルムズ海峡で生じるかもしれないリスクを一例として提示するだけでなく、シーレーン全体を通じて置かれている日本の地政学上のリスクをなぜ明言しないのか。そして南シナ海東シナ海朝鮮半島をめぐる国際状況を国民に訴え、中国の軍事的台頭とアメリカの後退という21世紀前半の危機的状況を踏まえ、それに対処しようとしても憲法9条が足枷となっていることをなぜ率直に訴えないのか。政府はもちろん憲法を遵守する義務を負うものであり、その制約下でぎりぎり為し得る安全保障策がこの法案なのだということ真摯に国民に訴えればよいではないか。

 政府が率直に語れば、当然偏向メディアに誘導された世論の反発が大きいだろう。いいではないか。愚民がすべてではない。分かる者は分かる。分かろうとする者もいる。それで長期政権の望みが潰えてもいいではないか。後に残る種子がある。

 

 公への責任感を持たない政治屋やジャーナリストが子供をだしにして愚民を煽ろうとする光景はまことに醜悪である。上記の寺田学は委員会質問の中で「この子が将来徴兵制にとられるのではないかと怖い」という妻の言葉を引用した。細野豪志はブログの中で「深夜であったが、娘にこの問題を話したところ、食いついてきた。2060年は我々にとって未来だが、彼女たちにとっては現実だ」と書いた。某ジャーナリストは国会前のデモで「WAR IS OVER!  IF YOU WANT IT」と書かれたプラカードを両手で抱えている幼な子の写真を掲げて「幼な心にも不安を感じたのだろうか。プラカードを手放そうとしなかった」などと書く。見ていて胃がでんぐりがえりそうになる。卑しい奴らだ。

 古今東西、文学、美術、音楽等の分野で子供を描いた作品は多い。そこに込められた芸術家たちの子供への尊敬の心に少しは思いをめぐらせてみよ。子供は卑しく利用されていい存在ではない。

死の宇宙に浮かぶひとときの生

 昨日、東京藝大美術館で、『ヘレン・シャルフベック ― 魂のまなざし』展を鑑賞した。シャルフベック(1862~1946年)は母国フィンランドの国民から最も敬愛されてきた画家である。

 シャルフベックの絵を観た後に思い浮かぶ言葉は、「傷」「黒」「子供」「生命力」「死」などである。

 展覧会場に入って最初に展示されているのは15歳のときの作品で、髑髏(どくろ)の上半分を描いた『静物』(1877年) だ。そして2番目が『雪の中の負傷兵』(1880年) で、雪原でかしいだ枯れ木にもたれて横たわる若い兵士の姿が描かれている。目はうつろで生の気配が感じられない。

 シャルフベックの生い立ちは厳しい。一家は貧しく、両親は3人の子供を次々に失っている。死は幼い頃から彼女の身近にあった。彼女自身3歳のときに階段から転落して重傷を負い、そのときに受けた心の傷も体の傷も一生の持ち物になってしまった。

 死のイメージはシャルフベックの作品の基調低音になって鳴り響いているようだが、そのうえでの命の輝きが鮮やかに表現されている。彼女の絶頂期の作品『黒い背景の自画像』(1915年) の背景は、彼女自身の言葉に拠れば、自分の墓石を表現したものである。それゆえ死のイメージに照準を合わせたこの作品の解説も多いが、私は逆に死を背景として浮かび上がっている生のイメージに心が惹かれる。自画像に描かれた顔は頬紅や鮮やかな口紅に彩られ、誇り高く凛とした表情が印象的である。

 子供の表情は生命力の象徴である。ブルターニュ滞在中に描いた『妹に食事を与える少年』(1881年) などはいくら観ていても飽きない。貧しい身なりの兄妹である。6歳ぐらいの兄が3歳ぐらいの妹に粗末な食事を匙ですくって食べさせようとしている。兄、妹それぞれの表情がたまらない。どうかこの子たちの前途につらいことがありませんように、と祈らずにはいられない(19世紀の子供たちだから、もうとっくにこの世を卒業しただろうが)。

 下着姿の幼子(後ろ姿)をひざまずいて抱きしめる若い母親を描いた『母と子』(1886年) からは命の温もりが伝わってくる。

 そして圧巻は『快復期』(1888年) である。フィンランドの国民から特に愛されている作品だそうだ。病に臥せっていた女の子が、だんだん回復してきて退屈さに我慢できずにベッドから抜け出したのか、寝癖のついたぼさぼさ頭のままシーツにくるまった小さな体で大きな籐椅子にちょこんと坐って、コップに挿してある小枝を手に取り、緑の新芽を見つめている、という場面を描いた絵だ。病から回復しつつある女の子と緑の新芽の取り合わせ、もちろん画家は命の力を賛美しているのだ。

 『快復期』を描いたときのシャルフベックが個人的にどのような苦悩を抱えていたかというような事情を一切知らずとも、鑑賞者はこの絵それ自体に感動する。個別的事情を持った画家の心の底から広がってくる普遍性というものだ。ここでは彼女のその苦悩についてはあえて書かずにおこう。知りたければ、詳しい解説はネット上でも簡単に見つかる。

 展示の横に添えられていた短い解説文には、たしか、この作品はシャルフベックの「精神的自画像」だと書いてあったように記憶する。会場の展示作品全体を見渡しても、彼女は他者をモデルとしながら(『快復期』の少女もモデルが実在した)、そこに自分を投影しているような絵が何点かあった。後で述べる『ロマの女』もそうである。

 なお『快復期』が描かれた頃のフィンランドでは、帝政ロシアの圧政下でナショナリズムの気分が昂揚していた。人々の愛国心を高めたシベリウス交響詩フィンランディア』が作曲されたのは1899年である。勇壮な愛国心が称えられていた時期に、病気の子供を描いてどうするのか、というような一部の酷評もあったそうだ(日経新聞5月17日の記事に拠る)。私はこの時代のフィンランドの人々のナショナリズムには敬意を惜しまないし、シベリウスも好きな作曲家の一人であるが、繊細さに蔑視の目を向けるような「強さ」を主張する人はいつの時代にあっても尊敬できない。

 『快復期』は病気の子供を描いたか弱い作品ではなく、苦悩の中にあっても命を称える強靭な精神が生み出した作品だ。

 シャルフベックの生涯は、幼い頃から老年期にいたるまで苦悩の連続である。その過程で、それぞれの年齢期に応じた自画像をたくさん残した。自己愛の表現でもなく、まして自己憐憫でもなく、己を客観視する冷徹な画家の目で捉えた自画像である。そのうちのひとつ『黒い背景の自画像』については上に述べた。

 私はこれらの自画像群を観ていると、若い頃に読んで強く感銘を受けた江藤淳の講演録『考えるよろこび』(1968年)を思い出した。その講演で江藤は、ソポクレスの戯曲『オイディプウス』、ソクラテスの後半生、19世紀アメリカのほとんど無名の政治家エドマンド・ロスの三つを例にあげて、「自分というものの正体を見きわめ、それを自分たらしめているなにかの実在をたしかめる」ことから「考えるよろこび」「知るよろこび」が生まれるのだと語っている。『オイディプウス』の悲劇を例示しているところでは、江藤は、自分を正視することの難しさと正視する勇気について語っている。

 シャルフベックは勇気をもって自分を正視したのだなあ、と感じ入った次第である。

 しかしそのシャルフベックといえども、自分を冷静に正視し得なかった自画像が一つだけある。自画像というよりも自傷像というべきか。『未完成の自画像』(1921年) である。

 これについては彼女の個人的事情を書かないわけにはいかない。

 シャルフベックは52歳のときに、33歳の画家(の卵?)エイナル・ロイターと知り合う。ロイターが尊敬するシャルフベックを訪ねてきたのだ。2人は意気投合し、芸術論を交し、共にさまざまな活動を行なう。2人の友情が深まっていくなかで、シャルフベックの心にはロイターへの恋が芽生える。ロイターの方では、シャルフベックへの友情と尊敬があるだけである。シャルフベックは19歳年下の青年への恋はかなわぬものと分かりつつも、57歳の夏にロイターが別の女性と婚約をしたことを知って、その心は寂寥と悲嘆のどん底に落ち込んでしまう。(ロイターは生涯シャルフベックへの尊敬と友情を持ち続け、彼女の作品を世界に紹介した)

 その頃に描いた『ロマの女』(1919年)は、ジプシーの女性をモデルとしているが、あきらかに自分の苦悩を投影している。女は両腕で頭を抱え込んでいる。肩から二の腕にかけての肉付きが豊満でエロチックである。シャルフベック自身の説明文に拠れば、「一人の子供のような存在の彼女は、自分にとって一番大切な人を誰かにとられたとき、大きな声で泣くのです」(ロイターへの手紙)ということである。

 その2年後に描かれたのが上記の『未完成の自画像』である。制作途中で放棄しようとしたのだろう、目を刃物で大きく傷つけている。唇だけが紅い。痛々しくて見ていられない絵である。その頃彼女が知人に送った手紙には「自分を見ることは決して楽しいことではありません」と書かれている。

 酷な言い方になるが、失恋とて命の輝きである。シャルフベックは苦難に満ちた生を引き受けながら83歳の天寿を全うし、最晩年まで創作意欲を持ち続けた。繊細で強靭な精神を持った画家だった。そして幸福な生であったことはいうまでもない。

 晩年の自画像は死の世界に溶け込んでいくような印象をもたらす。

 絶頂期に描かれた『黒い背景の自画像』(前記)が死のイメージを背景に置いていたように、十代の作品が死をモチーフにしていたように、暗黒の宇宙の中でのひとときの生を描いた展覧会であったなあと、後ろ髪をひかれる思いで会場を後にした。(了)

 

【欄外】

 「ジプシー」という言葉は今は差別語として忌避され、「ロマ」と言い換えられている。ジプシーは多民族であって、ジプシーかならずしもロマ族とはかぎらないという問題はさておくとしても、1919年時点での作品の題名は当然そのときの時代性を反映した固有名詞であるので、『ロマの女』という邦題はいかがなものかと思う。フィンランド語の原題は知らないが、英語での題名表記は『The Gipsy Woman』となっている。

 日本各地で今上映されているポーランド映画『パブーシャの黒い瞳』の日本語字幕は「ジプシー」という表記で一貫している。配給会社のまっとうな見識である。